ユカタンつらたん!DX

パワーアップするわよ。

期待ということ

「期待してるよ」

 

家族や先輩や上司や。

 

こんなことって嬉しいことで、

その言葉で、私は頑張らなければいけない存在なんだと気づく。

努力すべき存在なんだと思う。

頼られているんだと私が存在する意義になる。

 

けれども、それを苦しいと感じてしまう自分もいる。

 

本当は期待されるべき存在ではないのに。

そんな能力は備わっていないのに。

 

褒められれば褒められるほど、

本当の「わたし」ではない誰かが一人歩きしているようで、

結局私ってどこにいるんだろう。

外枠はどこまで行ってしまったんだろう。

 

こんな感情は、

それは相手への無礼であって、

行き場のないこの気持ちは

どこか彷徨ってしまう。

 

誰かの好意を素直に喜べない私の中身は、

どこに帰ればいいんだろう。

 

私は、こんな贅沢な悩みを抱えていいんだろうか。

 

f:id:yucataaan:20190821184718p:plain

 

 

自己成長ということ

就職活動の軸は

「自己成長」

という人がいる。

 

いっぱいいる。

 

私には全く理解できなかった。

というか今も理解していない。

 

なぜ、成長したいのか、

その先に何があるのかわからないから。

 

成長って、

叶えたい夢や、

なりたい姿を実現するために

するものじゃないの?

と思ってしまうのである。

 

「自己成長」はゴールでも目的でもなく、

単なる手段だと私は思う。

 

 

ところが、その「自己成長」を楽しんでいる

自分を見つけてしまった。

 

昨日出来なかったことができるようになる。

なんだかパワーアップした気がする。

価値の世界が拡がった気がする。

 

どれも「成長」の証しである。

 

つまるところ、

私は「自己成長」そのものに喜びを得ていて、

それが夢やなりたい姿に

直接繋がっているわけではないけれど、

無意識のうちに「自己成長」を求めていたのだ。

 

 

「趣味は自己成長」

 

うん、悪くない。

影響ということ

刺激的な恋をしたい。

 

誰だってそう思うはず。

 

けれどもリスクは負いたくないから、

疑似体験で憧れを抱くの。

 

 

『男女7人物語』から始まって、

ブザービート』とか『サマーヌード』とか

月曜9時が楽しみで、

キラキラの恋に憧れて。

 

ドラマはみんなの「なりたい」だったはず。

 

 

しかし何だって言うんだい、

最近のテレビドラマは。

 

弁護士もので社会問題を熱弁し、

恋愛ドラマでは従姉妹に恋する。

 

1クールに1本はジェンダー問題を訴え、

1クールのほとんどは小説や漫画の実写化。

 

社会問題を取り扱ってるのが悪いわけではない。

 

けれども、社会問題を取り扱って成功してるのは

チャップリンくらいなものであって、

やるなら全国民に問題意識を

植え付けるくらいのインパクトを頂戴よ。

ネットが炎上するくらいのメッセージを頂戴よ。

 

「若者の恋愛離れ」は

個人主義の風潮よりも、

こういうところから出てくるんじゃない?

 

f:id:yucataaan:20190420224227p:plain

 

信じるということ

信じてるけど

信じてない。

 

相手に多くは求めない。

相手に期待はしない。

 

それってつまりは、

誰かが私のために何かしてくれるかも

ということを信じてないのではないか。

 

こんな私に興味がある人なんていない。

所詮ワタシなのだから。

 

これってつまりは、

「ワタシ」という可能性を信じていないのではないか。

 

私はワタシすら信じていない。

人生って虚しい。

 

f:id:yucataaan:20190315204216j:image

承認欲求ということ

なんというか虚しい。

なんというか苦しい。

 

振り返ってみれば、大学に入ってからの3年間、

自分の努力で勝利を掴んだり、

何かに抜擢されたり、

誰かに認められることがなかったな。

 

自分では頑張って生きているつもりなのに、

なぜなんだろう。

努力が足りないのかしら。

 

高校までは、有難いことに、

多くの面で評価をいただいて、

周りには応援してくれる人もたくさんいたけれど、

 

なんだか今は、

ずっと独りで歩いてきた気分だよ。

 

世間も気にせず、自分の世界をもち、

独自の道を進んでいて強い子だねとよく言われるけれど、

あえてそこから目を背けてたけれど、

あえて気にしないふりをしてたけれど、 

 

私だって人並みに認められたいし、

人並みに褒められたいし、

人並みに愛されたい。

 

こんな欲求を持つことは、

愚かだろうか。

 

 

誰か私を愛してよ。

 

f:id:yucataaan:20190126003312j:image

 

 

 

熟れるということ

私はまだまだ未熟である。

 

わからないことは、わんさかあるし、

わからないことさえわかっていないこともある。

 

自分が未熟であることを

実感すればするほど、

自分に嫌気がさしてしまうけど、

 

未熟ということは、

これから熟す余地があるということ。

 

これから、まだまだのびる思うと、

あんなにコンプレックスだった無力ささえも、

何だかわくわくしてくる。

明日が楽しみになる。

 

私の冒険は、これからこれから。

 

こう思えるようになったのって、

少し熟したってことじゃない?

 

「ひと」ということ

 

f:id:yucataaan:20190102232438j:plain

画像出典:西武「わたしは、私。」新聞広告より

 

私は、

 

大学生である前に

日本民族であって、

 

日本民族である前に

女性であって、

 

女性である前に

一人の人間であって

 

一人の人間である前に

一人の「ひと」である。

 

世界には、

異なる職種

異なる民族

異なる性別の人間がいて、

 

皆、

自分と他者を比べ合って生きている。

 

比較の中で優越感を押し付け、

劣等感を抱いては、

 

踠き、苦しみながら、

一生懸命立ち向かっていく。

 

けれども、

わたしは、私。

 

職種も、

民族も、

性別も、

 

何もかも関係なく、

人生を楽しむ。

 

属性なんて関係ない。

だって私は「人間」である前に

「ひと」であるから。

 

いいじゃない。

一度の人生、自由に生きたって。

 

 

そんなことを感じる広告だった。